
私の成長と重なるニュースステーションの18年半
今日、久米宏さんが亡くなったというニュースが入ってきました。 最近はちょっと仕事が忙しくて、Twitter(X)も、cities skylinesも1ヶ月くらい全然触れていなかったんですが、久米さんのニュースを聞いて、とても残念だな・・・と。このホームページの趣旨とは外れますが、少し長いですが当時の記憶を残しておきたいと思います。企業名などは伏せようかとも思いましたが、それだと何を言っているのかわからなくなるので、もう20年以上前の事なのでそのまま書きます。
最近の私は、もうほとんどテレビを見なくなりました。 今のテレビって、もう私たち「おじさん」向けじゃないんですよね(笑)。若い人に向けて作られているから、おじさんが見なくなるのは当たり前かもしれません。ニュースもネットで見ることが多くなりました。
でも、当時は違いました。 子供の頃はまだネットもなかったし、テレビのニュース番組、特に『ニュースステーション』が自分に与えた影響は本当に大きかった。ニュースの中のどこか遠い世界の話ではなく、自分に関係する出来事がニュースになっていく様子を、食い入るように見ていた、とても思い入れのある番組です。
今回は、そんな私の歩みと『ニュースステーション』を少し振り返ってみたいと思います。
『ニュースステーション』が始まったのは、1985年10月。私は1980年生まれです。自分の年がバレるのでほんとは言いたくないですが、この話をわかりやすくするために言わないと仕方ありません(笑)。 なので幼稚園の頃からこの番組があったことになります。 そして番組が終わったのが2004年3月。私が大学を卒業して就職したのが2002年ですから、社会人2年目の頃まで。
まさに、私が子供から大人になるまでの歩みと、ほぼ重なる形で放送されていた番組です。
近鉄バファローズとの出会い「10.19」
初めはニュースそのものというより、「野球の結果」でしたね。 ネットがない時代、プロ野球の結果をいち早く知るにはテレビが一番でした。
忘れられないのが、1988年。 プロ野球ファンなら誰もが知る、伝説の「10.19」です。 ロッテとのダブルヘッダーに2つとも勝てば近鉄が逆転優勝、というあの熱いシーズン。第2試合がちょうど『ニュースステーション』の時間と重なって、番組の中で中継していたんですよね。
私が近鉄ファンになったのは、間違いなくここがきっかけです。 残念ながら、近鉄はこの試合で力尽きて、西武ライオンズが優勝することになるんですが、あの劇的な幕切れは、8歳の子供心にも強烈に焼き付いています。
仰木監督と、野茂英雄という怪物
翌1989年には、近鉄は見事優勝を果たします。 でも、日本シリーズでは「3連勝した後に4連敗」してしまう。そんなところも近鉄というチームの面白さでした。当時の仰木彬監督が、本当に魅力的なチームを作っていたんですよね。
そして1990年、あの野茂英雄さんが近鉄に入ります。 ドラフトでは7球団が競合してくじ引きになりましたが、仰木監督が一番最後に残っていたくじを引いたら、それが当たりくじだった。そこから「野茂vs清原」の対決が始まって。もう本当に野球が楽しい時代でした。
なぜ『ニュースステーション』だったのか
当時、夜のスポーツニュースといえば『プロ野球ニュース』もありましたが、あちらは時間が遅いんですよね。子供だったから、そんな遅い時間までテレビを見せてもらえませんでした。
でも『ニュースステーション』は夜10時から。 10時半くらいから始まるスポーツコーナーなら、なんとか見られたんです。 そこで近鉄の結果を確認して、次の日の朝、新聞のスポーツ欄をまた読み込む。それが私の楽しみでした。
子供の頃の私にとって、『ニュースステーション』との関わりは、そうした「大好きな野球の結果を一番早く教えてくれる場所」から始まったんです。
Jリーグ開幕と「横浜フリューゲルス」
プロ野球の熱狂に続いて、1993年(平成5年)、サッカーブームが到来します。Jリーグの開幕です。
今では「オリジナル10」と呼ばれる10チームでスタートしたJリーグですが、横浜には「横浜マリノス」と、もう一つ「横浜フリューゲルス」というチームがありました。
今の若い人は「横浜F・マリノス」という名前は知っていても、なぜ「F」がつくのか知らないかもしれませんね。あの「F」こそが、フリューゲルスの「F」なんです。
「AS横浜フリューゲルス」
フリューゲルスは、もともと全日空(ANA)のサッカークラブが前身でしたが、Jリーグ参入にあたってゼネコンの佐藤工業が共同出資することになりました。
正式名称は「全日空佐藤工業サッカークラブ」。 「AS横浜フリューゲルス」とも呼ばれましたが、この「A」はANA、「S」は、私の父が勤めていた佐藤工業の「S」だったんです。
実は、この二社が手を組んだ背景には、深い「富山」の縁がありました。
佐藤工業は富山で生まれた準大手ゼネコンの老舗企業。そして当時の全日空を率いていた「中興の祖」若狭得治氏も、富山高校(現在の富山大学)出身で、富山を第二の故郷として生涯大切にされていた方でした。
この地縁を通じたトップ同士の関係で「全日空佐藤工業サッカークラブ」が誕生したと聞いています。
そんなことで、チケットを貰ってフリューゲルスの試合を何度か観に行きました。当時はまだ横浜国際競技場(現在の日産スタジアム)ができる前で、主な戦いの舞台は三ツ沢球技場でした。
三ツ沢の「手の届くような」迫力
三ツ沢は、今思い出しても本当に素晴らしいスタジアムでした。 陸上トラックがないサッカー専用の競技場なので、ピッチと観客席がとにかく近い。目の前でプロの選手が激しくぶつかり合い、ボールを蹴る音が響く。あの迫力には、子供ながらに圧倒されました。
一度、国立競技場の上のほうの席で観戦したことがあったのですが、遠すぎて何をやっているのかさっぱり分からなかった記憶があります(笑)。それだけに、三ツ沢の「すぐそこに選手がいる」という臨場感は、私にとってのサッカー観戦の原体験になりました。
ニュースステーションとJリーグの熱狂
当時のJリーグの盛り上がりは、今の比ではありませんでした。 『ニュースステーション』でも、試合がある水曜日や土曜日の夜にはJリーグの結果が大きく報じられていました。久米宏さんとスポーツキャスターが、サッカーの華やかなゴールシーンを伝える姿を、近鉄の結果と同じように夢中で見ていました。
ただ、サッカーが盛り上がる一方で、私の愛した近鉄バファローズには影が差し始めます。 名将・仰木彬監督がチームを去り、近鉄は少しずつ弱くなってしまったんです。弱くなる時こそ応援するのがファンなのですが、単に弱いというより、チーム全体がどこか暗いんですよ。ネットがないあの時代でも、子供心にその空気感は伝わってきました(笑)。
対照的に、仰木監督が次に向かったのはオリックスブルーウェーブ。 そこで阪神淡路大震災が起き「がんばろうKOBE」を合言葉にイチロー選手を擁して連覇を果たすオリックスの姿は、仰木監督の近鉄が好きだった自分としては、正直、羨ましくて仕方がありませんでした。
『ニュースステーション』を観ていると、片やJリーグの華々しいニュース、片やイチロー選手の快進撃。そんな中で、次第に元気を失っていく近鉄ということでなんか複雑な気持ちで野球を見ていた時代でした。
日本経済の暗転、そして「横浜フリューゲルス」の悲劇
中学生、高校生と成長していくにつれ、世の中の空気は少しずつ、しかし確実に重くなっていきました。 バブルが崩壊し、その後処理がうまくいかないまま、日本は後に「失われた30年」と呼ばれる長い長い不況のトンネルへと入り込んでいったのです。
その大きな要因の一つは「不良債権」でした。 バブル期、誰もが「土地の値段は上がり続ける」と信じ、借金をして競うように土地を買いました。しかし、その神話が崩れ、土地の値段が暴落。残されたのは、返すあてのない膨大な借金の山でした。
1997年、山一證券の破綻と「涙の会見」
経済の崩壊が目に見える形となって現れたのが、1997年の山一證券の破綻でした。 大手4大証券の一角が崩れるという衝撃。最後の社長となった野沢社長が、会見で「社員は悪くありませんから!」と涙ながらに訴えたシーンは、今でも有名ですね。
そして、その波は父が勤める佐藤工業にも押し寄せていました。 ゼネコン、特に準大手と呼ばれた熊谷組、フジタ、ハザマ、佐藤工業、といった企業は、バブル期にゴルフ場開発やリゾート開発などの積極投資を行っていました。しかし、地価下落とお客の激減で、有利子負債が増え経営は一気に火の車となったのです。
横浜フリューゲルス、撤退の真相
そんな中で起きたのが、1998年の「横浜フリューゲルス」の消滅・・・正確には横浜マリノスとの合併でした。
当時の出資比率は、全日空(ANA)が6、佐藤工業が4という割合だったと聞いています。しかし、経営不振に陥った佐藤工業は、1000億円規模の債権放棄(借金をチャラにしてもらうこと)を銀行に仰ぐことになります。
ファンの人からは「他にもスポンサーを探せばよかったじゃないか」「チームを捨てるのか」という厳しい批判が今でもあります。私も一人のファンとして、チームがなくなるのは本当に残念でした。でも、あの時の経済状況を知る者として言えるのは、「正直、あの当時はあれしか仕方がなかった」ということです。
「夢」を語れる経済状態ではなかった
借金を1000億円も帳消しにしてもらっている会社が、一方で数十億円という出資をサッカーチームに続けることを、銀行は許してくれないでしょう。 そして、代わりに数十億を出してくれるような企業も、あのどん底の日本にはどこにもいなかった。それが現実でした。
プロ野球と違い、Jリーグは企業名をチーム名に入れられないルールです。宣伝効果もあまりなく、あの不況下でそれだけの資金を投じるメリットを見出すのは、あまりに困難なことだったのです。
フリューゲルスの消滅から25年以上が経ち、今でも「なぜ守れなかったのか」「他にスポンサーを探せばよかったのに」という声を聞くことがあります。当時、小学生や中学生だったファンの方々の純粋な悲しみは痛いほど分かります。
しかし、あの時すでに社会人、あるいは私のように父が佐藤工業に勤め、自分は就職活動を控えた「大人」の入り口にいた人間からすれば、あの時代の空気はそんなに甘いものではなかったと感じるのではないでしょうか。
1998年、日本経済は文字通り「どん底」でした。山一證券や拓銀が潰れ、大手銀行やゼネコンもいつ破綻してもおかしくない。各社が経営再建を進めていました。Jリーグブームも一段落し、どの企業も自社の社員の雇用を守ることだけで精一杯だったのです。
「どこか別の会社が助けてくれる」なんて考えは、当時の冷徹な経済状況を知る者からすれば、あまりに非現実的な理想論でしかありません。あの時代の「痛み」を、肌感覚として知る人間としては、あの時、チームを維持できるような余力のある企業は、ほぼ無かったと思います。
ニュースステーションの特集を家族で見つめて
このフリューゲルス消滅のニュースは、『ニュースステーション』でも大きく特集されていました。 自分の応援していたチームが、そして何より父の勤める会社が、時代の荒波に飲み込まれていく様子を、私は家族と見ていました。
高校生から大学生へと多感な時期だった私にとって、ニュースステーションが映し出したのは、他人事として明日には忘れてしまうようなニュースではなく、自分たちの生活に直結する「生々しい痛み」そのものでした。
夢中になった近鉄バファローズ。そして目の前で消えていったフリューゲルス。 私の学生時代は、そんな時代の転換点とともにあったのです。
「超氷河期」の就職活動
私が大学を卒業し、社会に出たのは2002年のことです。 後から調べて分かったことですが、実はこの2002年こそが、長い就職氷河期の中でも「最悪の年」と呼ばれた時期でした。有効求人倍率が過去最低水準まで落ち込み、まさに「超・氷河期」の真っ只中。そんな時代に、私の就職活動は始まりました。
当時の就活は、今とはルールも雰囲気も全然違いました。 リクナビでエントリーすること自体は今と同じですが、当時はまだ「履歴書は手書きでなければならない」という風潮です。
パソコンもネットもある時代なのに、「手書きじゃないと熱意が伝わらない」なんて今思えば馬鹿げた話ですが、当時はそれが当たり前。失敗したのを含めて100枚以上書きましたよ。ボールペンで一文字でも間違えたら、修正テープは厳禁。また最初から書き直しです。
50社くらいはエントリーしたでしょうか。中には、学生に対して本当にひどい態度をとる会社もありました。「この会社の製品は一生使わない」と心に決めた企業もあって、今でもその会社の商品を見かけても絶対に買いません(笑)。本当にとっても厳しい、就職活動は嫌な思いもたくさんしました。
「ダイエーはやめておけ」と言われて
必死の活動の末、ありがたいことに3社から内定をいただきました。ダイエー、物流会社、そしてバス会社。
どこに行くべきか悩みましたが、私は「ダイエー」を選びました。 当時、ダイエーはすでに経営危機が叫ばれていて、ゼミの先生からは「あそこはもう厳しい、やめておけ」と猛反対されました。でも、当時の私には、それでもダイエーという会社が潰れかけていたとしても業界のトップ企業であったし魅力的に見えたんです。
結果的に3年で退職することになりますが、私はダイエーに入ったことを全く後悔していません。社会人としての基礎、仕事への向き合い方・・・今の私のベースはすべてダイエーで教わったものです。あの時、あの場所でキャリアをスタートさせて本当に良かったと、今でも感謝しています。
人生の選択で他の道は選べないので、内定を頂いた他の2社に行っていたらどうなっていたかはわかりません。
ちなみにその2社とも現在に至るまで経営は順調です(笑)
入社1ヶ月前、テレビに流れた「佐藤工業の倒産」
しかし、社会人になる直前の2004年3月。日曜日の朝のことです。 その日は当時の彼女とデートの約束があって、朝早く起きてNHKのニュースを眺めていました。
午前6時のニュース。
「佐藤工業、会社更生法を申請」
父が長年勤めた会社が、私が社会人になるわずか1ヶ月前に事実上の倒産を迎えたのです。 『ニュースステーション』は翌月曜にそのニュースが放送されていました。
父の会社が終わりを告げ、それと入れ替わるように、私は「潰れる」と言われたダイエーに入社することになります。
「ダイエー」という母校、そして産業再生機構の激流
2002年、私は「いつ潰れてもおかしくない」と言われていたダイエーに入社しました。 でも、実際に入ってみて感じたのは、会社としての「温かさ」と「再起への強い意志」でした。
1年目は何度も泊まりがけの研修があり、2年目も続きました。後年別の会社で人事担当を経験した今の私から見ても、あの教育体制は本当にありがたかった。社会人としての基礎はすべてここで叩き込まれました。
当時、大阪に「スーパー大学校」というダイエーの大きな研修施設があって、教官は厳しかったですが温かさがわかる厳しさでした。
世間からは厳しい目で見られていましたが、社内はどこか「おおらか」で、この危機に飛び込んできた新人を温かく迎えてくれる空気がありました。私は今でも、自分の原点はダイエーにあると感謝しています。
「身ぐるみを剥がされる」合理化の波
しかし、外の環境は日を追うごとに厳しさを増していました。90年代後半以降、 駅の売店(キヨスク)にぶら下がる夕刊フジや日刊現代の見出しには、毎日のように「ダイエー」や、父がいた「佐藤工業」の文字が躍っていました。
『ニュースステーション』や『ワールドビジネスサテライト』を観れば、自分の勤めている会社がどんどん追い詰められていく様子が報じられる。福岡の「3点セット(ドーム、ホテル、ホークス)」の売却、ローソン、リクルート、オレンジページ・・・。
借金を返すために、利益を出している子会社を次々と切り売りしていきました。 でも、スーパーという業態は、電気や水道と鉄道など同じライフラインに次ぐ業種だと思います。なので本来、単体で莫大な利益を上げられる業態ではありません。稼ぎ頭をすべて失い、残されたのは利益の出にくいスーパー事業のみ。まさに「身ぐるみを剥がされた」状態での戦いでした。
イトーヨーカドーの盛衰
ダイエーにいた頃、私は競合店であるイトーヨーカドーの売り場を何度も見に行きました。当時のヨーカドーは売り場作りが非常にしっかりしていて、学ぶべきところが多かったのです。
セブンイレブンがコンビニの王者として君臨していましたが、その強さの源泉、いわば「DNA」は、間違いなく母体であるイトーヨーカドーの小売りに対する厳格な姿勢から受け継がれたものだと私は思っています。
しかし、その後の歴史は残酷でした。 皆さんもご承知のように、本家であるヨーカドーの経営は厳しくなり、セブンイレブンとの立場は完全に逆転。セブン&アイ・ホールディングスという巨大グループの中で、かつての主役だったヨーカドーは、いつしか「お荷物」のような扱いをされるようになってしまいました。そして昨年、ついにグループから切り離され、売却されるというニュースが流れました。
これには、スーパーマーケットという業態が抱える根本的な「宿命」があると感じています。
そして、私はダイエー以降は全く違う業種にいるので、一消費者の意見として、今ではセブンイレブンも以前ほど力が無くなっているように感じます。
「儲からない」のがスーパーマーケットの現実
はっきり言って、スーパーマーケットというビジネスは儲かりません。 コンビニはフランチャイズビジネスという側面があるためまだ利益を出しやすい構造ですが、自前で商品を仕入れ、広い売り場と多くのスタッフを抱えるスーパーマーケットとは全く考え方が違います。
今、世の中にある様々な食品スーパー、そして巨大なイオンですら、スーパーマーケット事業単体で見れば、どこも驚くほど利益率は低い。それはなぜか。スーパーは、電気や水道、ガスに次ぐ「ライフライン」だからです。人々の毎日の食料品衣料品を支える公共性の高い存在である以上、莫大な利益を乗せることは構造的に難しいのです。
ダイエーがかつて、儲かっている子会社を次々と手放し、利益の出にくいスーパー事業単体になって立ち行かなくなったのは、まさにこの「業態の宿命」を物語っていました。ダイエーの衰退は、総合スーパービジネスそのものの限界だったのかもしれません。
樋口社長と林会長、二人のプロ経営者の葛藤
2004年、ダイエーはついに産業再生機構の傘下に入りました。事実上の破綻です。 当時の高木社長が最後まで抵抗しましたが、小泉・竹中路線による「不良債権処理」という国の方針には逆らえませんでした。
そこで送り込まれたのが、会長の林文子さんと、社長の樋口泰行さんでした。 林さんはBMW出身のセールスのプロ。樋口さんは日本HPの社長を経て、古巣のパナソニックに戻る直前に火中の栗を拾う形で来られました。
若手社員だった私から見ても、お二人がダイエーをなんとか生き残らせようと必死だったことは痛いほど分かりました。特にIT業界から来られた樋口さんは、勝手の違う小売の現場で本当に苦労されていたと思います。店舗を回る樋口さんが、喉を通らないのか、小さなお弁当すら満足に食べられないほど疲弊されていた姿は、今も忘れられません。
しかし、再建の主導権を握ったスポンサーの丸紅は「商社の論理」を優先しました。現場の想いを大切にする経営陣と、効率を求めるスポンサー。その板挟みの中で、お二人は志半ばでダイエーを去ることになります。
私もその頃、3年間お世話になったダイエーを辞める決断をしました。 かつての流通の王者は、今ではイオンの一子会社として関西の食品スーパーになりました。残念ではありますが、あの時代の日本が求めた「処理」の結果だったのだと、自分なりに整理しています。
ITと製造業の架け橋に
樋口さんはダイエーの後、日本マイクロソフトの社長、その後、古巣であるパナソニックに復帰されました。 現在はパナソニック コネクトの会長を務められていますが、報道によれば、この2026年3月をもって退任される予定とのことです。ダイエーでのあの壮絶な日々を経て、日本を代表する製造業の変革をリードし続け、一つの大きな区切りを迎えようとされています。
まさか「市長」として名前を書く日が来るとは
一方、林さんはダイエーの後、日産などを経て、2009年から横浜市長を3期12年にわたって務められました。 横浜に住んでいた私は、かつて自社の再建に奔走していた「会長」に、今度は自分の住む街の未来を託して名前を書く。人生、どこでどんな縁があるか分からないものだと、強く感じたのを覚えています。林さんは2021年に市長を退任され、現在は公の場からは退かれています。
樋口さん、林さんとも、これからもお元気に過ごされていることを心から願っています。
久米宏さんと歩んだ「20年」の終わりに
振り返れば『ニュースステーション』は、野球が好きな子供時代から氷河期といわれた就職活動まで、ネットよりもテレビで情報を得る時代に平日の22時、毎日のように接していた番組でした。
国際ニュースで言えばソ連の崩壊、 湾岸戦争、あの9.11テロの夜も、 世界が動き、日本がもがき、そして私自身が子供から大人へと成長していく時期でした。
久米宏さんが『ニュースステーション』のマイクを置いたのは、2004年3月のことでした。 今振り返ると、この2004年という1年の中に、私の子供時代から青年期を彩ったものが、すべて凝縮されて幕を閉じていったからです。
春には『ニュースステーション』が放送を終え、夏には近鉄バファローズが球界再編のなかでオリックスとの合併に向かい、秋にはダイエーが産業再生機構の管理下に入る事が決まり、年の瀬にはダイエーホークスがソフトバンクに売却されました。
ニュースが伝えられなかった「その先」
ダイエーの機構入り決定も、近鉄の消滅も、『ニュースステーション』が終わった数か月後に起きた出来事でした。つまり、久米さんはこれらの「最後の瞬間」を番組で伝えることはありませんでした。
久米さんの引退と呼応するようにして、自分が応援したチーム、そして自分が最初に選んだ職場が、次々とその形を変えていきました。
ダイエーが産業再生機構に入る事が決まった後、希望退職の募集がありました。その時に2000人ほどがダイエーを去る事になったと思います。退職を希望していない人でも遠隔地と他部署への配置転換の内示が示される形で退職された人もいました。
ダイエーは私が入ってからでも50店舗以上のお店を閉鎖していました。当然、ポストがなくなり意欲のない中堅社員が滞留していたことも事実なので、仕方がないことだとも言えます。わたしはそれから1年後くらいに退職することにしました。
形を変えて生き続ける「ダイエーのDNA」
私は3年でダイエーを去る道を選びましたが、その後、イオンに吸収されてからも会社に残っている人たちがたくさんいます。
時折、イオングループの人事異動などのニュースを目にすることがありますが、子会社の社長や店長、部長クラスといった重要なポストに、ダイエー出身の方々の名前を見つけることがよくあります。
ダイエーという会社自体は、残念ながらかつての巨大な姿ではなくなってしまいました。しかし、今もイオンという大きな組織の中で、しっかりと仕事をされています。
感謝を込めて
久米さんの司会ぶりには賛否両論あったかもしれません。でも、あのわかりやすさ、あの影響力は、今のテレビにはもう望めないものです。私もいつの間にかテレビから離れ、ネットでニュースを見るようになりました。久米さんのニュースステーションが終わった2004年は、私が「若かった時代」の明確な区切りだったのだと感じています。
久米さんの訃報。81歳という生涯を閉じられたニュースを聞き、自分が子供から大人へと歩んできたあの時代の記憶が、当時の空気感とともにふっと思い起こされました。
経済の荒波、スポーツの熱狂、そして社会人としての苦闘。 私の人生の激動期を一番近くで伝えてくれた「ニュースの顔」でした。
たくさんの言葉を、ありがとうございました。 安らかにお休みください。
久米宏さんのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。